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居候高野の軟弱川旅日記

〜 第1次四万十川遠征 〜


[1995年11月1日〜6日]



 昨晩の8時に新宿を出た高速バス「ブルーメッツ号」は朝7時、定刻より少し早く高知駅前に着いた。夜行の高速バスに乗ったのは初めてである。席は独立した3列で前後の間隔も広く、昔乗ったスキー用のバスよりよほど快適だったが、いざ寝ようとすると窮屈で、目を閉じて寝入っても1時間もすると目が覚める。それを繰り返していると、仕舞いには眠る努力をするのが馬鹿馬鹿しくなり、夜が明けないうちから窓とカーテンの間に首を突っ込んで外を眺めていた。
 そのおかげで、眠くて気持ち悪くてぼろきれのような気分である。空も曇り気味である。四国は初めてというわが僚友、WさんとA君に感想を聞いてみた。

 「どうですか、四国の印象は」
 「......」
ふくれっ面で押し黙っている。彼らも眠れなかったらしい。


 駅前の喫茶店で朝食をとり、暇を潰すための雑誌を数冊買って高知駅の中に入ると、これから乗る予土線の鈍行列車が到着していて、少し明るくなってきた空に向かってディーゼルの煙を盛んに上げていた。実に四国らしい風景である。市電は別として、四国の鉄道は高松・松山間くらいしか電化されていない。しかも大概単線である。
 乗り込んで、ボックス席を確保すると、じきに発車した。


 「かんぱーい」と、朝っぱらから缶ビールを開けた。さっきの喫茶店でゆっくりコーヒーを飲んだおかげで、我々の体調はすばやく回復している。

 「ここからあとどのくらいかかるんだ」

 Wさんが言った。
 僕は時刻表をめくった。

 「そうですね、えーと、あと4時間くらいかな」
 「そうか、暇だな」
 「風景もぱっとしないしね」

 A君が言った。

 しかしそんなに面白くないこともない。確かに今は同じような風景が続くけれど、20キロ程西に真っ直ぐ進むと山に阻まれて線路は南に折れ、海岸に出た列車は、岬を上り下りしながら走る。幾つものトンネルを抜けるので景色はあまり見えないが、トンネルとトンネルの間に一瞬見下ろす土佐の海の青さは何とも言われない程美しい。
 そんなことを二人に説明したが、大した興味を示さずに寝入ってしまった。張り合いがないやつらだが、しかし僕も元々寝が足りないのとビールが回ってきたのとで、急に眠くなってきた。


 自分のカヌーを手に入れてからそろそろ半年になる。近くの川の瀞場で何回か練習し、進むのも曲がるのも止まるのも不安はなくなって、もう静水で漕ぐのに飽きてしまった。そろそろ川を、流れる水の上を下ってみてもいい頃だろう。
 当初目を付けたのは栃木県の那珂川である。昨年この川で行われた「カヌー体験スクール」なるものに参加して指導員の先導で中流を10キロほど下ったことがある。僕がカヌーに乗ったのはそれが初めてであった。その那珂川をまた下ってみるかと考えた。一度行ったことがあるから安心である。

 しかし、同じところに行くのは芸がない。記念すべき処女航海なのだから、それにふさわしく、水がきれいで旅を実感できるような川に行きたいなあ。そして我々は初心者なので、あまり難易度が高いと困る。調べるてみると、そういう川が一つあった。

 「四万十川はどうでしょう」
 「四万十川ねえ。いつかは行ってみたいんだけどさあ、レベルはどうなのだ。我々がいきなり行って下れるのか」

 今回の川旅の道連れその一・Wさんが言った。そうしてビールをぐびりと飲んだ。雨が降って川で遊べないときは、我々はこうして居酒屋に集まることにしている。Wさんは酒にめっぽう強い。結構飲んでいるはずだが表情も顔色も全く変わらない。
 というより平常の時でも半分酔ったような顔付きで、何となくからむような目付きなのがちょっと怖い。

 「レベルは、そうですねえ、那珂川と同じくらいかな。気をつけなきゃならないところが一か所あるくらいで、あとはのんびり下れるらしいです。昔カヌー屋さんで聞いたら、『居眠りしながら下れる川だ』って言ってましたよ」
 「ふーん。でも荷物はどうするの? 那珂川だったら車で運べばいいけど、四国まで車で行くのはつらいよね。自力でフネやキャンプ道具をかついでいくのは大変なんじゃない?」

 道連れその二・A君が言った。A君は僕の高校の時の同級生である。この人も酒に強いので、三人で飲んで割り勘にすると僕はかなり損をする。

 「あ、その点についてはですね、ちゃんと調べてあります。何と向こうの役場で宅配便の受け取りをしてくれるそうですよ」
 「ほー、じゃあ荷物を送っちゃって手ぶらで行けばいいのか。そりゃ楽だなあ」
 「でも、高知県は遠いよ。最初は無難に、近場にしといた方がいいんでないの」
 「確かに、交通費も結構かかりそうですねえ」
 「うーむ…」

 一同はそこでビールをあおってしばし無言になった。

 「しかしですね。いろいろうまいもんがありそうですよね、あの辺は」

僕が言った。

 「四万十川の鮎、鰻、エビ。海だったら鰹。鰹のたたきなんて、本場だからきっとうまいんだろうなー」
 「よし、決定」

とWさんが宣言して、鰹につられて四万十川に決まった。


 我々が眠っている間も鈍行列車は走り続けて、終着の窪川に着いた。山あいに開けた、四万十川流域でいちばん大きな町である。待ち時間を利用して駅前の食堂で昼食をとり、次の宇和島行きに乗り継いだ。
 山が深くなり、この辺りからいよいよ列車は四万十川に寄り添って下っていく。我々は幼児のように窓に貼り付いた。

 「水、全然ないね」

 A君が言った。ここいらは上流部で、本来激流のはずなのだが、川底の岩がのぞくほど干上がって、無惨な姿を晒している。大きな水溜まりが連なったようになっていて、その間を申し訳程度に水が流れている。確かにこのところ雨が降っていない。台風も一度来たか来てないかという程度である。

 「おーい高野、大丈夫なんだろうな」
 「えーとですね、出発地点の江川崎で、広見川というのが合流するんですよ。結構大きい川だから、まあ大丈夫だと思うけどなあ」
 「水がなくて下れなかったら、荷物を送り返してとっとと中村に出て、毎晩飲みまくるとするか」

Wさんは少しその気になってきたらしい。何となく鰹を食いたそうな顔をしている。

 僕もちょっとその気になりかけたが、江川崎駅の少し手前で件の広見川が合流すると、四万十川は何とか下れそうな水量になった。列車は広見川を渡ってからぐいと右に曲り、駅に止まって我々を下ろした。昨晩から延々15時間の長旅で、なかなかくたびれた。良い川は不便なところにあるのである。


 川と川が合流するところには町ができる、と小学校だか中学校だかの社会科で教わった覚えがある。その通りに川と背後の山の間の狭い土地に家が立ち並ぶ江川崎は、四万十川流域で一番大きな村である西土佐村の中心地であり、村役場もここにある。
 その役場であらかじめ宅配便で送っておいたフネを受け取り、四万十川本流をまたぐ大橋を渡って対岸のキャンプ場に向かった。今日はこのキャンプ場に一泊し、川を下るのは明日からにするつもりである。

 橋の途中で立ち止まって川を見下ろすと、きらきらと輝く緑色の流れが、緩やかなカーブを描いて山裾の間に消えている。その向こうには四国らしい穏やかな山並みがどこまでも続いている。

 そういう風景を見てしまうと、もう落ち着いていられない。キャンプ場に着くや否や、三人とも無言で猛然と艇を組み立てはじめた。まだ一時をすこし回ったばかりで全く焦る必要はないのだが、気が急いているから手順を間違える。

 「おーい高野ー、変な格好して艇の中に潜って何してるの?」

A君が言った。

 「浮力体を入れ忘れちゃったんだよー」

 やっとのことで浮力体を入れたが、今度はフレームを前後逆に入れてしまったことに気づいた。最初からやり直すほかはない。結局、いつもの二倍くらいの時間がかかってようやく二つの艇ができあがった。一艇は僕が乗るカヤックである。もう一艇はカナディアンカヌーで、これにはWさんとA君が乗る。それからついでにテントを張った。これもカヌーと同じで二つ、小さい方に僕が寝て、大きい方にWさんとA君の二人が住むことになっている。

 そうしてさっきの橋をまた渡って駅の方に引き返し、スーパーに食糧の買い出しに行った。もちろん酒屋に立ち寄って内燃飲料を仕入れた。これを忘れてはいけない。缶ビール十数本とワイン一本、これだけあれば明日の晩くらいまではもつだろう。

 テントで一眠りして外に這い出すと、空が暗くなりはじめている。晩秋の上、四方を山に囲まれているので、日が暮れるのは早い。常識的な夕食の時間には大分早いけれど、真っ暗になると面倒なので、さあはじめよう。
 スーパーで買ってきた材料で、キャンプ料理の定番のキムチ鍋を作った。昼食をとってから5時間ほどしか経っていないが、延々と乗り続けた列車の振動が胃を揺すぶって消化を助けたのであろう、おいしくたいらげた。ビールも次々と空になる。そうして夕食を食べ終わると、A君は早々とテントに潜って寝てしまった。昨日は徹夜明けだったのだそうである。
 まだ寝るのには早いので、ワインの栓を開けた。空を見上げると、無数の星が覆い被さってきた。都会で見る貧弱な星空とは比べ物にならないくらい数が多く、一つ一つの星がはっきり見える。

 「しかし月が出ているのが残念だな」
 Wさんが言った。満月に近い大きな月が東の空に上りつつある。新月の時ならもっとすごいんだぞと言って、北斗七星とカシオペアとオリオンくらいしか知らない僕に、空を指しながらあれは何星、あれは何座、と星や星座の名前を教えてくれた。殆んど忘れてしまったが。

 「Wさん、どうしてそんなに詳しいんですか」
 「高校の時に天文部に入ってたんだ」
 「へえ。天文部って、どういうことをするんですか」
 「俺がいたところは天文部野外班というところで、一年に何回か望遠鏡と米をかついで山に登って星を見てくる、なんてのをやってたな。ちょっと山岳部の要素も混じってるな」
 「ふむふむ」
 「その頃はいい道具はまだ高くて買えなかったから、テントは三角のキャンバス地のやつで、これは重かったぞ。床がないから雨が降るとひどい目にあうしさ。貧乏でランタンもなかったから、明かりはローソクだな。食事の時に手許が見えないからみんなで山小屋の水道のところに集まってさ、明かりがあるから。そこでメシ作ってそこで食ったよ。他の一般人が見て驚いてた」
 「ふーん。なかなか暗い高校生活を送ってたんですねえ」
 「まあな」

と言って、Wさんは少し黙った。暗い中で川の流れる音を聞いていると心地よい。

 「それから、流星観測もやったな」
 「流星観測って、何をどうするんです」
 「学校の屋上に10人くらい集まってさ、書記を中心にしてみんなが放射状に仰向けに寝て、空を見る」
 「書記って何ですか」
 「寝転がってるやつはそれぞれ担当の空を見ててさ、流星が現れたら、位置とか流れた方向とか明るさとかを申告するわけ。それを書き留める係が書記」
 「なるほど」
 「星が見にくくなるから明かりは付けちゃいけない。明かりを使えるのは書記だけで、それも記録するときだけ。それから、気が散るから喋っちゃいけない」
 「みんな無言なんですか。……暗い高校生活を送ってたんですねえ」
 「うるさい」


 テントで熟睡して翌朝7時に起きた。今日はここから口屋内まで漕ぐ予定である。15キロ程しかないからそう急ぐことはない。それでゆっくり準備した。それぞれのフネに荷物を積み込み、キャンプ場の下の河原から出発したのは10時頃である。
 岸から見てもよく分からなかったが、フネの上から見ると、緑色の水を通して、小石の広がる川底がどこまでも続いているのが見える。いつも練習している荒川とは大分趣きが違う。荒川では水深が30センチもあると、もう底が見えない。だから、漕いでもあんまり進んでいる気がしないが、この四万十川ではパドルで一漕ぎすると川底がすっと後ろに滑っていくので、実に張り合いがある。

 そうして江川崎の町は背後の山の陰に隠れて見えなくなった。前方には川と山と青空が広がるばかりで、実に気分が良い。


 後ろを見ると、カナディアンカヌーの上のWさんとA君が、いつのまにやら缶ビールを取り出して、こっそり乾杯などしている。僕に黙って飲むとはけしからぬやつらである。ここで遅れをとってはならない。「俺にもくれ」と叫びつつ、持てる技術を全て駆使して、ビールの運搬船である二人のカナディアンにぴたりと横付けして、ビールにありついた。こういう細かい操船にはまだ自信がないのだが、実益が待っていると見事に決まるものである。

 漕ぐ手を休め、微風に吹かれながら、ゆっくり流れる水の上を漂っていると、10人程のカヌー集団が追いついてきて挨拶した。どこぞのアウトドアショップが主催するカヌーツアーだそうで、口屋内まで下るそうである。メンバーは見事におっちゃんやおばちゃんばかりである。しかし、四万十川のようなゆったりした川には我々のような若造より、貫禄のある彼らの方が圧倒的に似合う。

 しばらく彼らと一緒に下っていると、前方からごうごうと瀬の音が聞こえてきた。初めての川の初めての瀬なので緊張する。地図を確認して、ビールがこぼれないようにしまって、いざ、と思ったのだが、どんどん水深が浅くなってパドルが川底を引っ掻き、フネが砂利に乗り上げてとうとう止まった。こうなったら降りて歩くより仕方ない。これがなかなか面倒で、川の中は滑って歩きづらいし、放っておくとフネは流れていこうとするし、カヌーの本にはいくら浅くても水の中に倒れて足が変な具合に引っ掛かると溺れて死ぬこともあるなどと書かれていたのを思い出したりしたので、神経を使った。中年ツアー集団もフネを押したり引いたりして苦労しているようである。これから先の瀬の三つに一つはこんな具合にフネを引いて歩かなければならなかったので、彼らはさぞお疲れになって、四万十川が嫌いになってしまったのではないかと心配する。この季節は一年でいちばん水が少ないのであって、春から夏にかけてはもっと水をたたえていて快適なはずである。しかし、水が少ない代わりに水質はいちばん良いそうである。
 またビールを飲んで休憩し、彼らと別れて先へ進むとまた瀬音がし出した。

 「高野、ちょっと見てこい」

 身軽なカヤックに乗った僕が先行して偵察した。今度は大丈夫そうである。
 戻ってそのことを二人に報告するのは面倒なので、先に下って、偵察の結果を行動で 示すことにした。
 早瀬を下るのはカヌーツーリングになくてはならない楽しみの一つである。

 自分の回りの水が、前方の狭くなった水路に、滑らかに吸い込まれていく。
 川底の砂利が後方に流れていくのがどんどん速くなって、一個一個の石の判別がつかなくなり、そうしてフネは白い波のなかに突入する。波に負けないように力強く漕ぎながら、思わず「イヤッホー」と叫び声が出てしまう。次々に現れる波を乗り越える度に、フネの舳先が上を向いたり下を向いたりする。爽快である。

 瀬が終わったところで待っていると、A君とWさんのカナディアンがやってきた。僕と同じように何やら口々に叫んでいるようだ。カメラを向けると変なポーズをとって調子に乗っている。そのまま引っくり返ってしまえば面白のにと思ったが、何事もない。四万十川下流の瀬はこのようにおしなべて素直で、初心者でも安心なものばかりである。

 岩間の沈下橋で上陸した。沈下橋とは、正規の大橋を作ると時間もお金がかかるので、その代わりに掛けた小さな簡易的な橋のことである。水面から数メートルしかないので大雨の時には水没する。そのため橋の断面は長円形をしていて、欄干もなく、水の抵抗を受けにくいようにしてある。幅も狭いので、この上で車とすれ違うとなかなかスリルがある。橋の一つ一つのデザインがそれぞれ違っていたりして楽しいのであるが、大橋が建設されるのにしたがってどんどん姿を消しているという。

 昼食のラーメンを食べ、カヌーで橋をくぐるところを代わる代わる記念撮影してから出発した。

 何度も浅瀬で苦労し、午後になって吹いてきた向かい風を頑張って乗り越えると、山が開けて河原が広がった。何軒かずつ人家が見える両岸を、長い沈下橋が結んでいる。今日の目的地の口屋内である。早瀬を抜けて橋をくぐり、左岸の砂地になったところに上陸した。


 「なかなか面白かったね」

というのがA君の初めての川下りの感想である。

 「水はきれいだし、人もいなかったし、うん、なかなかいい川だよな」

 Wさんが言った。ちょうど鮎の禁漁期間なので、この時期の四万十川は一年中でいちばん静かである。出会った人といえば、朝の中年軍団の他にカヌーが2, 3組、それから川漁師らしき人2, 3人だけである。

 川にさらわれないようにフネを上に引っ張り上げて、荷を下ろし、口屋内の町に散歩に出た。雑貨屋のような魚屋のような駄菓子屋のような、何でも置いてある店で、食糧を補給する。食堂も見つけた。今日の夕飯はここで食うことにしよう。
 そうしよう。ということにして、河原に戻った。


さて、テントを立てようとして、ある重大なことに気づいた。

ポールがない。

 今朝江川崎を出るとき、テントの本体は丸めて船首に入れて、それはこうしてここにあるのだが、本体と別にして脇に置いておいたポールをどうしたんだか、そう言えば覚えていない。ポールがないと当然テントが立たないから、非常に困る。
 荷物を全部引っくり返したり、フネの中を覗いてみたりしたけれど、見つからない。急速に不安が高まっていく。フネの中に首を突っ込んでごそごそやっている僕に気づいてWさんがやってきた。

 「何やってんだ? 穴でも開いたのか?」
 「いや、穴は開いてないんですけど、あのー」
 「何だ」
 「...あのですね、テントのポールが、見つからないんですけど」
 「......」
 「どうも江川崎で積み忘れちゃったみたいで」
 「......」
 「すすす、すんませーん」

 全く初歩的なミスで、不覚である。しかし出てこないものはどうしようもないから、三人集まって鳩首会議した。

 「俺たちのテントは定員いっぱいだから、おまえ外で寝ろ」
 「そんなー。三人用だから、あと一人寝られるじゃないですか」

 しかしテントの人数表示というのは、無理やり詰め込めば入らないことはないという ものであって、それから1を引いたあたりが適正人数なのである。

 「江川崎まで行ってきたらどう?」
とA君が言った。

 「でももうバスはないんじゃないかな」
 「タクシーで行けばいいんじゃないか」

 その手があったが、さっき口屋内を散歩したときはタクシーなど一台も見なかったから、江川崎から呼ぶことになるだろう。しかしそうすると、何時に帰れるか分からないし、それにいったい幾らかかるのだろうか。

「うーん」と僕はうなった。日が沈んで空が暗くなってきた。今から江川崎に戻るのはいやだ。

 「ま、そういうことでよろしくお願いします」
 「何が」
 「つまり、そちらのテントにお邪魔するということで」
 「あれに三人寝ると狭いぞ。却下。やっぱりおまえ地べたで寝ろ」
 「そんなー」
 「…しょーがないな。じゃあ今日の夕メシは高野のおごりね」

 A君のお許しを頂いて、さっき目を付けておいた食堂に行った。いかにも四万十川らしく「鮎定食」「川エビ定食」というのがあったのでそれを注文した。鮎にはたまにお目にかかることがあるけれど、川エビというのは初めてである。  川エビとは手長エビのことで、体の長さと同じくらいの長い両腕を持っていて、その先に小さい鋏がある。それが唐揚げにしてある。長い腕以外は都会の居酒屋で出てくるエビの唐揚げと大差ないが、味は大いに違った。

 「お、うまい。うまいですよこれ」

どれどれとA君も頬張る。

 「うん、うまい。身が詰まっててしっかり味があるね」

 これに比べると、居酒屋のエビなんて紙みたいなものである。Wさんが羨ましそうに見ているので、二三匹進呈した。鮎定食はまあ普通の塩焼だったそうである。今、鮎は禁漁なので、おそらく冷凍ものなのだろう。

 あんまり川エビが美味だったので、もう一皿作ってもらい、キャンプ地に持ち帰った。焚火を起こし、その川エビをつまみにビールを飲んでいるうちに月が上ってきた。明日も晴れだろう。


 A君がハーモニカを取り出した。ハーモニカは焚火に良く似合う。細長く、少し寂しい 音色を黙って聞いた。一曲終わったのでぱちぱちと拍手する。

 「へーうまいじゃん」

とWさんが褒めた。どうやらこの日のために密かに練習していたようで、殊勝なことである。

 「次の曲は?」
 「…これだけなのだ」

 同じ曲をあと二三回繰り返して、やめにした。もうそろそろ寝よう。明日はどこに上陸するか決めていないので、朝早く立つことにしている。


 三人入るとテントの中はもう隙間がなく、寝返りもできない。三人が川の字になると、真ん中の人はいいけれど、その両側に寝る人は目の前に壁が迫って非常に窮屈である。大体、正確に言うと川の字ではない。川の字は一番左の棒が跳ねているから余裕があるけれど、我々は三人ともまるっきり真っ直ぐの棒である。


 9時頃、口屋内を立った。昨日の満月が示していた通りに良く晴れて、小春日和である。依然として四万十川は山の中をゆったり流れている。しかし今までは山裾がそのまま川に落ち込んでいたのが、山と川の間に森が挟まっていることが多くなった。岸から張り出した木々の枝の下を透明な水が軽快に流れていて、それが遠くまで真っ直ぐ続いている。枝の間から木漏れ日がちらちらする。人の姿も見えない。

 「いいねえ、この雰囲気」
 「漕がなくても勝手に進むしね」
 「夏場ならもっと気持ち良さそうですよね、きっと。ジャングルみたいで」
 「よし、ビールを飲もう」

A君がクーラーの蓋を開け、一人一人に缶を手渡した。

 「おーいみんな、もうビールがないぞ」
 「何い! これでおしまいか!?」
 「うん」
 「そういえば、昨日酒屋に行くのを忘れてましたね」
 「くそう、しまった」

 あわてて地図を見たけれど、最終上陸地の中村までものを買えそうなところはない。口屋内に戻ろうにも、とっくに見えなくなってしまった。仕方がないので貴重なビールをちびちびとなめることにした。

 川に棒切れが浮かんでいるなと思ったら、たまにそれが水面下に引っ込んで、しばらくして離れたところに現れる。初めて見るけれど、それはどうやら鵜のようである。普通の水鳥と違って、体がずっと水の下に沈んでいて、首だけが浮いている。全く変な鳥で、どうなっているのか不思議である。地図を見ると「鵜の江」と書いてある。なるほど。
 事前の調査によると、下流最大の瀬がここいらにあるはずである。しばらく進むと果たしてかなり先の方から瀬の音がし出した。これまでのごうごうとは違い、低音が効いた、どうどうという音である。

 「高野、偵察してこい」
 「はいはい」

 間近に見ると、川幅がぐっと狭くなったところに落ち込みがあり、その向こうに5,60センチくらいの高さの波が重なり合っている。瀬音が大きいのでちょっと怖いけれど、流れは真っ直ぐだし、まあこのくらいなら何とかなるだろう。ただ、瀬の直前が浅瀬になっていて岩が幾つも顔を出しており、そこに突っ込んだらフネの底がぼろぼろになりそうである。そこで岸沿いにフネを引いていくことにした。

 そう言うのは簡単だけれど、水路からはみ出た水がかなりの速さで流れていて、そのおかげで滑りやすい河原を横切らなければならないので大変である。ここを越えるのに10分くらいかかったと思う。そうしてやっとフネを深いところに浮かべて、乗り込もうとして、二人のカナディアンの方を見ると、A君の姿がない。どこに消えたのかなと思っていると、波間に人の頭が見え隠れしている。

 「お、やったやった。ざまーみろー」

 ぱちぱちと手をたたいた。自分がそうなるのはいやだが、人が不幸な目に会うのを見るのは何だか嬉しい。A君には悪いけれど、ひとりでに顔がほころんでしまう。A君が這い上がってきて言った。

 「フネを引いてたら、いきなり足許が崩れて水に飲み込まれちゃったよ」
 「こないだ行った海でも一人だけ引っくり返ったし、なかなかカヌーを満喫しているよね」
 「四万十の水はうまかったか」

とWさんが言った。

 「いやー、命の洗濯をしちゃったよ」


 フネの中に入った水を出して出発した。瀬はだんだん少なくなり、その代わりに淵が増えてきた。
 口屋内から中村までは観光ルートになっているので、時折屋形船とすれ違った。邪魔にならないように脇にどいて、屋形船の客に手を振ってやる。

 「いいなあ、あれ。漕がなくていいしさ。あのなかでべろんべろんに酔っぱらって寝転がっていたいぜ」

 アルコールが切れたWさんはそろそろ禁断症状が起きているようである。
 水があんまり動かないので、先へ進むためには漕がないとならないけれど、静かな水面を行くのもまたいいものである。日が射すと、川底に自分の影がくっきり映る。まるで宙に浮いているかのようである。後で知ったのだが、このあたりは四万十川でいちばん水がきれいなところだそうだ。

 山を巻くヘアピンカーブの頂点のところにある河原に上陸した。地図には「島の宮」とある。ちょっと早いけれど、今日は瀬を越えるのに疲れたし、だいぶ漕いだので、まあこんなところでいいだろう。


 テントを張って、焚火のための流木を集めると、差し当たって何にもすることがない。本を取り出してぱらぱらとめくってみたけれど、内容が頭に入ってこない。何にもしない状態のままで別に良いのであって、三人とも寝転がってまだ日が高い空を見上げた。11月だというのにウグイスが鳴いている。向かいの山のどこかから、「帰りました!」と学校から帰宅した小学生の声が聞こえる。
 目の前を屋形船が通った。子供が手を振っているので我々も手やパドルを振って返すと、子供は無邪気に喜んで、激しく手を振り回した。その親らしき人物も手を振ってくれたが、何だか苦笑しているような複雑な顔をしている。

 「何か変な顔をしてましたね、あのお母さん」
 「きっとわが子が大きくなって俺達のような怪しいことをしてほしくないんじゃないの」

 川旅をして河原にテントを張るのは、そんなに怪しくもないような気がするけれど、我々の顔は日焼けと焚火の煙のせいで、煤けて、浮浪者然としている。

 フリーズドライの夕飯を作って、食べて、そのうち夜になったけれど、酒がないのでいまひとつ盛り上がらない。それで、さっさと窮屈なテントに入った。


 5時に起床した。だんだん体のリズムが太陽の動きと一致するようになってきて、都会なら宴会はこれからというような時間に眠くなり、朝は飛んでもなく早い時間に目が覚める。コーヒーを沸かして飲んで、ラジオを聞いていると、ラジオ体操が始まった。そこで、みんなでそろって体操して、筋肉痛になってきたごわごわの体をほぐした。

 さて、出発しよう。残りはあと5キロくらいだから、ゆっくり行けば良い。

 川の幅は広くなり、大河の容貌を帯びてきたが、まだ両側に山並みが続いている。
 酒が切れたWさんが叫んでいる。

 「そろそろ酒が飲みたいぞー」
 「カツオが食いたいぞー」

 そろそろ我々は、都会が恋しくなってきたようである。

 川旅というのは傍目には優雅でロマンチックに映るけれども、実際にやってみると、食事も寝る場所も全て自分で用意しなければならないので、なかなかしんどいものである。
 我々は、中村の居酒屋に針路を取り、パドルを漕ぐ手に力を込めた。

[おわり]


第1次四万十川遠征 ツーリングデータ Copyright (C) 2001- MINatsuki(June Arai)
http://gekiryu.infoseek.ne.jp/


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